「カオス理論とは、力学系の一部に見られる、数的誤差により予測できないとされている複雑な様子を示す現象を扱う理論である。つまり未来を予知することは絶対不可能ってことだ!」

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国語の作文で「弟のことが嫌い」という内容を書いたら道徳で返された

道徳教育であって国語教育ではない

「昔国語の作文で弟のことが嫌いだという内容を書いたら,先生から『兄弟は仲良くしましょう。」というコメントが付いてきた。






リツイートの一部
確かに算数の時はそんなこと言われないな。だからみんな「国語」があやふやになって苦手になっていくんじゃね?

単に「〇〇〇と書くとより憎たらしさが伝わりますよ。でも、弟とは仲良くしましょうね。」って書けば終わりじゃねぇの?

国語の時間に道徳をする代わりに、算数の時間に(掛け算順序問題など)国語教育をするのです(錯乱)

社会科がそうだったな。1年の半分ぐらい「戦時中の悲惨な話」と「軍国主義の愚かさ」を授業で受けさせられた。進学クラスだったので(我ら)生徒たちが反発して大変だった。今考えるとスゴイ大問題な気がする。

そもそも学問と道徳が全ての範囲で両立出来る(あるいは、出来ないと分かっているがその範囲は見てみない振りをする)という立脚点から間違っている

「憎たらしさをより強く伝える」ことより「憎たらしさという感情が生じた原因を分析して、次に同じ状況になったときにどう対応すべきかの考察まで書きましょう」の方が、本来の国語教育のコメントではないでしょうか。

なるほど・・・深い。これは深い。

作文の内容に対してのコメントとしては合ってない気がする。

内容の事実関係なんて国語教科に関係ないもん。

ただひとつの作文の題材として架空のものかもしれない。そもそも弟なんていないかもしれない。

文字選びや文章構成、さらに登場人物や心情を指摘することが国語教科としての評価だと思う。




うむ。もっともです。その教科の教育として正しいと思う。

というわけで調べてみました。
doutoku,3

そもそも道徳て何?

道徳教育については、学習指導要領に規定されており、「道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うもの」であると示されている。

つまり、国語科や社会科といった教科の授業や特別活動といった教科外活動(領域)においても道徳教育が行われるものとして位置づけられている。

これは、道徳とは本来誰からも評価がなされない場合であっても、当然の事として行なわれなければならないものであることが、一つの根拠となっている。

即ち学校において行われる全ての活動は一つの例外もなく、当然のこととして道徳的であることが求められると同時に、学校外における活動についても、本来全ての活動は須らく道徳的であるべきことが求められる。

えーと、つまり道徳っていう授業は存在しません。

教科ではないのです。だかた教科書もありません。資料というのが正しい。

「教育活動全体」「教科外」という形で教えるもんなんだってさ。

ということは、冒頭のツイート「それは道徳教育であって国語教育ではない。」というのは間違いなのだ。

いや間違いじゃない。たしかに国語教育のコメントではない。

が、国語という教科を通じて「道徳」を教えるという形で合ってる。

とすると、「これこれこうしたら作文としてより良い形になります」「でも兄弟は仲良くしましょね」てな感じで両立させたら良かったのかな。

これに対して生徒は「なんで仲良くせなならんの?あんなに憎たらしいのに」とか疑問が生まれれば、それをまた先生にぶつけたらいい。

さて、道徳という教科は存在しないと言ったけど、これがどうやら変わるようだ。
学習指導要領の一部改正により、これまで教科外活動(領域)であった小学校・中学校の「道徳」を、「特別の教科 道徳」とし、教科へ格上げした。

小学校では2015年度(平成27年度)~2017年度(平成29年度)の移行措置を経て、2018年度(平成30年度)から完全実施され、中学校では2015年度(平成27年度)~2018年度(平成30年度)の移行措置を経て、2019年度(平成31年度)から完全実施される。

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免許は不要だが、教科書として扱われる。

こうなると先生が大変になるよね。いや楽になるのか。

教科化の問題点

道徳教育の教科化に際して、僕は以下の2つの問題点があるとおもう。

1.「絶対的に正しい道徳」は存在するのか?

道徳教育の教科化は、言うなれば、「絶対的に正しい道徳」とはなにかを国家が定義し、それを上から押し付ける教育だ。

例えば「戦争は悪い!しちゃダメ絶対!」って言うよね。

でも戦争てのは話し合いでは解決しない、またはそんな余地なく自分の主張を押し通し制圧することだと思う。

これをグーッと小規模にすれば人間vs.人間。

二人いれば意見が食い違うこともある。話しが通じない。ぶん殴る。従わせる。ってことだと思うんだ。

アニメでもよくあるシチュエーションで、人類を滅亡させようとする悪者。

そんなことはさせないぜ!という正義のヒーロー。

でもこの悪者側にも正義がある。人類は資源を食いつぶし、環境を破壊していく。このままでは地球が危ない。

だからその害である人類を消す必要がある。

ね?正義でしょ?

どちらも正義なのだ。だから争いが起こるのだ。

となると、絶対的に戦争は悪い!とは言えないだろうし、絶対的な道徳というのも難しい。


2.「文科省お墨付き」の道徳教育はいじめ問題の免責に使われかねない

もし、「文科省お墨付き」の道徳教育のカリキュラムで授業をしたのに教室でいじめが発覚したら、教員は次のように、論理的に言い訳できる。

「あれだけ正しい道徳教育をしたのにいじめが起きた、これは極めて例外的な事態であり、児童個人間の問題であり、教員個人と学校側に責任はない」

きちんと授業しましたよ?教科書通りですよ?でもイジメが起きましたね。

そういやそのイジメに加わった児童は道徳教科の理解力が不足してたかな~。頭悪かったのかもね。

っていう「児童の問題」として言い逃れするかもしれない。

難しいな~。

いやだからと言って、今の道徳の教え方が良いとは言えないでしょう。

そりゃもう担任の先生次第なとこがあるから、クソみたいな先生についたら、その思想が刷り込まれるかもしれない。

そういう意味では一定の道徳教科の基準ということで、教えやすいのか。

「それは道徳教育であって国語教育ではない。」

というツイートにちょっと引っかかったら、意外にも考えさせられた。

絶対的な善悪というものは区別が難しい。立場によって正反対になっちゃうもん。

それぞれに正義がある。正義がない場合にそれは「戦争」ではなく「侵略・制圧」ってこった。

そうそう、似たようなことがあるわ。

確信犯

「確信犯」は、自分の行動の“道徳的・宗教的あるいは政治的な正しさを確信”してなされる犯罪のことを指す法律学上の用語である。
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間違った解釈としては「結果を予想した上で行動を起こしたとしか思えない行為あるいは人を指す言葉として使われることが多い」

ある電器店員が映りの悪いテレビの調整を依頼された場合

「この回路をつなげば直る」と思い込んで操作したが、実は誤った回路を繋いでしまい、テレビを故障させてしまった → このケースは過失犯

「このテレビを壊せば客は新しいテレビを買ってくれる」と考え、わざと間違った修理を行い、テレビを壊した → このケースは故意犯

「テレビは社会的に害悪なものであり、この世に存在してはいけない」との信念のもと、テレビを破壊した → これが本来の意味での「確信犯」である。


すごいわかりやすい例としてこんなのがある。

「救急救命士が重傷患者を救いたいがために、法律で禁じられている治療行為を搬送中に行うといった行為」

どう?どう思う?

一刻も早く治療しないと命が危ない。けど、救急救命士のぼくがやると違法だ・・・

いや!ぼくがやらなきゃこの人は助からない!うおおぉおおぉおぉおぉ!!!

しかしながらこれは「確信犯」として処罰される。

難しいね。

道徳て何?道徳として正しいと思っても、法に裁かれるって何?

道徳・・・どうとく・・・
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